圏論初級徒然 2
圏論では「本当に同じ」以外に、「同型」「同値」の概念が重要となる。
ちなみに、isomorphismは名詞、isomorphicは形容詞だが、
日本語ではしばしば両方とも「同型」と訳される。
補題
関手は同型を保存する。
関手は、モノやエピを保存しないが、分裂モノと分裂エピは保存する。
リール先生は「レトラクションとセクションはモノとエピの
eqautional witness である」とおっしゃる。
「方程式による証人」だろうか。
しかし、equational には「細胞分裂の」という意味もある。
(「はたらく細胞」を読んだのでそんな気がして調べた。)
だからもしかすると「分裂の目撃者」というしゃれかもしれない。
考えすぎかもしれない。
この分野では同値だの同型だの似た言葉が乱れ飛ぶ。
定義 自然同型
自然変換の各コンポーネントが同型のとき、その自然変換を自然同型という。
(「自然同値ということもある」とマックレーンにある。)
定義 圏の同型
で、、 のとき、 と は同型であるという。
(同型射を同型とよぶコンベンションに従えば、、 も「圏の同型」とよべる。)
定義 圏の同値
で、自然変換 があり、それらが
自然同型であるとき、 と は圏同値であるという。
(同値を導く射も同値とよぶコンベンションに従えば、、 も「圏の同値」とよべる。)
射の種類を示す名詞(isomorphismやequivalence)と対象の関係を示す
形容詞(isomorphicやequivalent)を同じ日本語(同型や同値)で示すのは
どうかと思うが、多くの人がそうしている。
この辺で混乱しがちなのは私が素人だからだろうか。
ちなみに、随伴で単位元、余単位元が同型になるものを随伴同値という。(マックレーン)
随伴同値なら同値であることは明らかだが、同値なら随伴同値であることも言える。
定義 充満、忠実、対象上で本質的に全射
は、
(1) が全射のときは充満、
(2) が単射のときは忠実、
(3) すべての に対し、ある があって が に同型のとき、
対象上で本質的に全射
という。
(別の日本語の本で、「対象上で本質的に全射」を単に「本質的全射」と
言っているものがあった。その著者の言い回しなのか、一般的なのかわからない。)
補題
で、 以外が与えられたとき、図が可換になるように が唯一つ決まる。
(証明もどき)
教科書には同型の向きを変えた4つの図がある。
で、証明っぽいお言葉もあるが、それは「普通にやれ」という意味だと思う。
ここでは、ちょっとひねって(?)、hom関手を使ってみたい。すなわち、
□
定理
選択公理を仮定すれば、関手 が圏同値を導くことと、
が、充満、忠実、対象上本質的に全射であることは同値である。
(証明のコメント)
上の補題を使いまくる。なかなか楽しい。□
定義 骨格的、骨格
各対象について、「同型な対象が自分以外にない」ような圏は骨格的であるという。
に同値な骨格的圏(同値を除いて唯一つ決まる)を の骨格といい、
と書く。
補題
骨格が同型な圏は同値である。
また、同値な圏の骨格は同型である。
(証明)
骨格的な圏同士の同値は同型になることを言えばよい。
たとえば、 とする。
しかし、同値な対象は1つしかないのだから、 である。□
補題
が充満忠実のとき次のことが言える。
(1) が同型なら も同型。(同型の反映)
(2) と が同型なら と も同型。(同型の生成)
((1)の証明)
が同型なら、 があって、
、 となる。
が充満だから、 となる があり、
、 となる。
は忠実だから、、 。 □
元ネタ:Emily Riehl : Category theory in context
思い込み的でどうでもよい雑談:
言語の中には抽象的発想を記述する部分と具体的な記述をする部分がある。
日本語の場合、前者が漢語(「上昇」など)であり、後者が和語
(「高い位置へあがる」など)だろう。
多くの「難しい言葉」は抽象的であり、漢語が好まれる。
漢語(日本語内の漢語)は、そのままつなげると名詞でも形容詞的になるため、
名詞と形容詞の区別があいまいになる。
一方、英語にも、抽象的発想を記述する部分(ラテン語語源の語)と
具体的な記述をする部分(やさしい単語の組み合わせ)がある。
ラテン語系の言葉と漢語は、なんだか相性がよいため、大抵のことはうまくいく。
しかし、当然完全に一致しているわけではないので、なんだか落ち着かない訳に
なってしまうこともあり、訳者による違いが出るのだと思う。
equivalence と equivalent を誰もが納得するように訳し分けるのは難しいだろう。
さらに言えば、これは数学の話ではないが、英語でも名詞を形容詞的に使う
こと(その逆も)があり、そこにしばしば冠詞(aやan)の見落とし、と言うか、
やくざな訳者が「冠詞がない」という事実に気がつかないことにより、
さらなる形容詞と名詞の混乱が生まれていると思う。